現地分科会最後の訪問地は幕末の農村指導者、世界で最初に農業協同組合「先祖株組合」を作った大原幽学の遺跡でした。
幽学は尾張藩の家臣の二男として生まれたとの説があります。18歳の時に武道の師を殺め、勘当され、放浪の身となり、はじめは武芸、のちに知人から占いを教わり、易占、観相、講説などで流浪の生活をし、その後、神道、儒教、仏教を一体とする独自の「性学」を開いた。その後、干潟八万石にあった長部村(現在の旭市、長部、ながべ)に招かれ農業振興に努力。
稲を同間隔で植える方法(現在の手法)や耕地整理や1カ所に固まっていた集落を2軒づつ、田んぼの周りに移動して、2軒が協力して農作業を行うことや、物品を共同購入して安く買うことや前の晩に家族が翌日の作業の打ち合わせ、相談を行うこと、子どもの教育、しつけのために、一定年数を子どもを交換する制度などを提案実施した。
その教えを乞う人が増えてきて、「改心桜」という教習所を建設するなど活動が目立ってきたことが反感を買い、農民の行き来を怪しまれ、勘定奉行に取り調べられる。押し込め百日と改心桜の棄却、先祖株組合の解散を言い渡される。5年に及ぶ訴訟の疲労と性学を学んだはずの村の荒廃を嘆き、62歳で墓地で切腹。
大原幽学記念館で