あべ裕美子のかけ歩き

日本共産党・あべ裕美子福島県議の活動報告です

結婚45周年を迎えました

 日本共産党50周年の時に私たち夫婦の新たな旅立ち、結婚式を挙げようということになりました。ちょうど7月15日は土曜日だったので、皆さんが参加しやすい日曜日7月16日(日)に会費制の人前結婚式を行い、皆さんに祝ってもらいました。会費千円でした。会費制の結婚式はたぶん町で第一号だったようです。あれから45年を迎えました。二人そろって元気で金婚式を迎えることはなかなか大変なこととあらためて思います。

 新婚旅行はせっかく一週間、休暇が取れるので尾瀬に行き、その足で”五色の集い”に合流することにしました。燧ケ岳に上り、あやめ平をめぐり、鳩待峠から至仏山に登り、尾瀬の湿原の中の山小屋に泊まりました。

 その後、家族を引き連れて尾瀬に行き、義母にはもう一度尾瀬に連れてってほしいといわれていたけれどかなわずでした。私も両足が人工股関節になってからは山行きは断念です。

党創立95年の歴史に立っ、世界と日本の激動の道しるべ党綱領の実現へ 日本共産党の躍進と市民・野党の共闘の前進へ力を尽くしましょう

 激戦を勝ち抜いた東京都議会議員19人の紹介で始まりました日本共産党創立95周年記念講演会で「日本共産党の95年の歴史を語る」公演を社会科学研究所の不破哲三所長が行いました。

 不破所長は1945年敗戦の瞬間まで典型的な軍国少年であった自らの体験を語りました。その時代に、主権在民の民主主義の旗、侵略戦争反対の平和の旗を断固として掲げ、民主主義の日本のために、命をかけてたたかった人々が、その政党があったことを初めて知ったことが最大の衝撃だったと述べています。日本共産党ソ連や中国の毛沢東一派の干渉との闘いを経て、自主独立の立場で科学的社会主義の「ルネサンス」を体現する党となり、今、対米従属と財界密着という政治を転換する党綱領の真価が国内的にも国際的にも試される時代を迎えたと述べています。日ごとに矛盾を深めている安倍政権の暴走は安倍政権の終焉近しが語られるようになっています。

 党創立以来、多くの同志たちの苦難に耐えた奮闘によって築かれてきた到達に立って、新たなページを開いていこうではありませんかとの呼びかけをかみしめました。

多喜二が小説書いて殺されるなんて、「母(劇映画)」に大きな感動、あの時代に逆戻りさせないために

 三浦綾子原作「母」の映画上映に大きな感動をもらいました。国家権力の拷問によって29歳で命を奪われた小林多喜二の母、セキを演じた女優の寺島しのぶさんは「多喜二の母セキという人を自分の体を通してほんとうに心から尊敬しました。強さ、逞しさ、優しさ、何よりも自分の子どもを大きな愛で包んであげる信頼する心。、、、  どんな苦難をも受け入れて前向きに進み続ける姿に女性としてだけではなく人間としての強さを感じました。」と述べています。多喜二が育った父、母とのかかわりなど、その温かさと小説を書くことが命がけであった軍国主義時代の対比も鮮明で、二度とこのような時代を繰り返してはならないとの思いがこみ上げてくる。

 前作も見たが、今度の映画「母」の監督、山田火砂子さんが「母から子どもを奪う戦争の愚かさを知ってほしい」と84歳でメガホンを持った心意気が伝わってきました。多くの人に見てもらいたい映画です。

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ありがとうございました。原田のぶおさん

 突然の訃報でした。原田信夫さんは病院に行こうと家を出て、倒れてしまったそうです。

 昭和4年に生まれたのぶおさんはきみさんと結婚され、二人の子どもさんに恵まれました。息子の俊広さんは福島高校を卒業し、法務局に努めましたが、間もなく民主青年同盟の専従になりました。最初は驚いたようですが、息子さんが平和で住みよい社会をつくるために社会進歩のために頑張る生き方を選択したことを理解し、支援してきました。きみさんと力を合わせて働き、保原町に家を求めて、移り住んでから20年になりました。いつもあたたかい支援をいただいてきました。

 私が国政選挙に立候補した時に、街頭の訴えをじっと聞いていてくれている人がいました。終わると拍手をしてくれます。宣伝カーは町から町へ移動して走ります。宣伝カーの後ろをバイクで走り、次の町でも、その次の町でも聞いてくれました。それが原田のぶおさんでした。選挙の時のチラシまきも、私の息子とこの地域、あの地域とこつこつと地図を塗りながら取り組んでいました。コーヒーが好きで、豆を挽いて入れてもらいました。寒い時に温まるからとラーメンを作ってくれてごちそうになったときもありました。本当にありがとうございました。今、大事な時、遺志を継いで頑張ります。88年間ご苦労様でした。