JAふくしま未来が取り組んだ前進座85周年特別公演「怒る富士」が4月5日(水)福島市公会堂で上演されました。東日本大震災復興・原発被害支援企画にふさわしく、観劇した人たちに「原発事故で苦しんでいる福島県民の状況に似ている」と大きな感銘を与えました。
1707年(宝永4)12月16日富士山の南東斜面、宝永山から大噴火が起き、すそ野の村々は噴出した火山礫や火山灰で埋まり、食糧の蓄えはなくなり、田畑は耕作不能、水の供給も絶たれ、深刻な飢餓に陥りました。雨のたびに河川に火山灰が流れ込んで河床を上げ、大雨で堤が決壊、下流の村々が土石流で埋め尽くされました。当時最も被害のひどかった富士山麓の59ケ村が「亡所」(収税地とみなさない替わりに手当もしない土地)とされ放棄されました。
若い人たちは働き口を探しに村を出ますがお年寄りや子どもなど他所に行くこともできず、支援米がなければ餓死するしかありません。幕府は全国の天領等に拠出金を命じ、被災地救援の財源として集めた40万両のうち被災地救済に当てられたのはわずか16両で、残りは幕府の財政に流用されました。砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行と呼ばれる災害対策の最高責任者に任じられた伊奈半左衛門忠順は、飢餓に苦しむ悲惨な状況を見て見ぬ振りできず、独断で幕府の米倉を開き、1万3千石を村々の領民へ分配しましたが、その行為を罪とされ、切腹を命じられました。被災地が復興し元の小田原藩に返されたのは噴火から実に36年後のことでした。
原作者の新田次郎氏は「身命を賭けて民衆を守る、そういう政治家が徳川時代にいた事実に、私は新鮮な驚きを感じ、このような人物が現代にこそ必要ではないか」と述べています。