7月18日(水)相馬市で開かれた相馬港建設促進期成同盟会総会が終わってから、私は車でひたすら国道6号線を南下して渡部寛一・チイ子さん宅をめざしました。原発事故直後に被災調査で訪問した時は作業小屋まで牛やイノシシが入り込み、樽の中のみそもすっかり食べつくされて、無残な姿でした。太い柱でしっかり造られていた母屋もネズミのふんなどで住める状況ではありませんでした。農民連のグループで豆を栽培し、味噌を作る作業所もでき、ほほえみ味噌の販売も軌道に乗って来ていましたが、原発事故で仕事はできなくなり、家族はバラバラにされました。息子家族は愛媛県に避難し、ミカンづくりをはじめました。孫さんたちとも別れ別れの生活になりチイ子さん夫婦は原町市の借り上げ住宅で避難生活を送っていました。
避難解除され、自宅に戻る時に介護施設を立ち上げる準備をしてきました。新築の白い壁の介護施設で当日は6人の高齢者がデイサービスを受けていました。ゲームをしたり、明るく過ごせる場ですが、昨年度は赤字だったそうです。くらしの復興に必要な施設ですが、復興への道のりはまだ始まったばかりです。(小高町は帰還率 %)